「もう、服従しない」(アヤーン・ヒルシ・アリ 著 / 矢羽野薫 訳)★★★★☆

もう、服従しない―イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した

もう、服従しない―イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した

前回の「イスラームから考える」からイスラームつながりだな。ただし、前回のは、イスラーム擁護的だったが、今回のはすこぶる攻撃的だったぜ。エジプトとソマリアのちがいかな。
ちなみに、おれとイスラームとのつながりは、たぶん、就職して数年たったころからだと思う。職場に送られてきていた「イスラムの声」という機関紙というか新聞のようなのを、上司がおれに回してくれていたのだ。「あんた、ようインドいくで、これはあんた読みゃあ」と言って。
当時はまだ、「インドはヒンズー教イスラム教はパキスタン」というのが常識としてあったと思う。おれも、彼の地へいってみて、はじめてあんなにムスリムが多いことを知ったのだった。それなのに、インドだからといって「イスラムの声」をおれに渡すというのは、上司はそういう事実をすでに知っていたのか。それとも、ヒンドゥーイスラームの区別もついていなかったのか。
これを書くにあたって、本当に「イスラムの声」という名称だったのか自信がなかったので、調べてみた。そうしたら、その名称ではそれらしいものは何もヒットしなかった。あやふやな記憶にもとづいて、「日本ムスリム協会」という発行者の名称と抱き合わせで検索したら、「日本におけるイスラーム50年の歩み」というのが出てきた。
ここでは「イスラムの声」ではなくて「イスラームの声」となっている。それは表記を現代風に統一したいためにそうしたのではないか。おれの記憶では「ー」はなかったような気がする。
コーラン」ではなく「クルアーン」という言い方も、それで知った。
協会機関紙だからだろうが、そこには、イスラームのいいことしか書いてなかった。"お祈りの前には沐浴をするのだが、旅行中などでできないときは手を洗うだけでよい"とか書いてあって、「ずいぶんやさしい宗教だな〜」と脳天気に思っていたのだ。まんまと洗脳されていたというわけか。
ところがどっこい、あんなこともこんなことも、クルアーンに書かれているという。本当かどうか原典を〔読めっこないし、翻訳すら〕読んだことがないので、なんとも言えないが。
おれはてっきり、FGM(Female Genital Mutilation、女性器切除)は、アフリカの土俗的習慣だと思っていたが、やっぱりそうだよねえ(女性器切除 - Wikipedia)。
でも、イスラームが男女の地位の違いを規定していることは、たぶん、本当だろう。キリスト教に比べて600年ぐらい遅れて始まってるんだから、600年ぐらい遅れていても不思議はないわなあ。600年前といやあキリスト教社会だって、相当なもんだったよね。そう考えると仏教社会はキリスト教社会よりも500年ぐらい進んでるってか???
まず、本を開いて思ったことは「字がちいせぇなぁ」ということ。むかし、よく、うちの祖母さんが「バス」のことを「パス」と言ったり「パブロン」のことを「パプロン」と言っていたが、そのわけがわかったぜ。「゛」がつながって「゜」に見えちゃうんだろうな。
それに、いっぱい人の名前が出てきて、だれがだれだかわからなくなっちゃって大変だったよ。アフリカ時代は、氏族社会ゆえに親戚がいっぱい出てきて血縁関係を把握するのもひと苦労。オランダ時代は、あっちの人には名の知れた政治家かもしれないけど、おれにはとんとなじみがなくって。これから読む人は、名簿を作りながら読むことをおすすめします。
480ページそこそこですが、時間がかかりました。