『これからの「正義」の話をしよう ― いまを生き延びるための哲学』マイケル・サンデル(著)鬼澤忍(訳)★★★★☆

「つかみ」はいいんだけど、途中からむずかしくなって(とくにカント、それとロールズ、あとアリストテレスに関するところ)、そのままむずかしさを引きずりなから最後のほうでまた少し興味のもてる(つまり具体的な)話がでてきて、、、という感じ。

カントについて

われわれ仏教徒というか日本人にはちょっと受け入れがたいものがあるんじゃないかな。すくなくとも俺にとってはそうだな。生き物は人間も動物も植物もみなひとしくたっといという考えかたとか、わたしが今ここにあるのは今あるもの過去にあったものすべての「おかげさま」という考えかたからは、人間だけ特別でなにものからも独立した理性を持つとは考えられないのではないか。
このひとは本当に傾向性のない自律的で定言的な動機(何の影響もうけず何かのためでもない動機)なんてものが存在すると思っているのだろうか。
最近は人間以外の動物の知性に関する研究もすすみ、「生物多様性」なんて言葉もかなり一般的になって生き物がみな(生き物以外も)たがいに影響をおよぼしあいつながっているという考えかたが浸透してきていると思う。なので、仏教徒や日本人でなくても、それが正義というのはちょっとおかしいって感じる人も多くなっているのではないか。

ロールズについて

道徳的恣意性(生まれ、社会的・経済的優位性、生来の才能や能力など)を排除するのはいいが、道徳的功績(努力、勝利、学力、業績など)まで否定するのはどうなんだ?それらを知りえない状態にする無知のベールをかぶった状態で結ばれる仮説的同意(平等の初期状態における仮説的同意)こそが正義だとしたら、正義についての既存の判断を、すべて洗いなおさなければならない。そのような前提でなされた判断は(ほぼ)ないと思われるからだ。非・実力主義や格差原理(自分よりめぐまれない人をたすけるためにのみ〈プラスの〉所得格差をみとめる)が社会的に認められるとしたら、相当の時間かできごとが必要だろう。というか、それが可能かどうか。いちど実験してみないとわからない。

アリストテレスについて

それはなんのためにあるか。その目的にかなうようにするのが正義である。なんかわからんわけではない。
ところが、そうなるとなにが正義かを考えるにあたって、なにが目的かを考えなければならない。アリストテレスは政治の目的を“善き市民を育成し、善き人格を養成すること(250ページ)”と考える。だったらこんどは、「善」とはなにかを考えねばならなくなる。アリストテレスにとって、「善」とは、“われわれ自身の本性を実現し、人間に特有の能力を磨くこと(280ページ)”だそうだ。であれば、また、「われわれ自身の本性とは何か、人間に特有の能力とは何か」を問わねばならなくなる。いったい終わりはあるのだろうか。


18世紀のカント、20世紀のロールズにつづいて、どうして紀元前4世紀のアリストテレスの登場となったか。
それは、著者の考えかたがアリストテレスの「正義とは善を実現すること」にちかいからだろう。
著者はマッキンタイアの「人間は物語る存在である」という考えを紹介し、人をコミュニティや共有する歴史のなかに位置づける。これは、上述した“生き物がみな(生き物以外も)たがいに影響をおよぼしあいつながっているという考えかた”にも通ずるより現代的な(日本的、仏教的、生態学的な)考え方だと思う。

戦争責任・戦後補償について

この本を読むまで、俺は完全に道徳的個人主義だった。つまり
”われわれは自分がすることにのみ責任を負い、他人の行為にも、自分の力が及ばない出来事にも責任はないという考えだ。両親や祖父母の罪について釈明する義務はないし、さらに言えば、同胞の罪に関しても同様だ(275ページ)”。
まだ80ページあたりで、貧困者を助けるために富裕者に課税するのは、自分の金を自分の好きなように使う自由[基本的権利]を侵害しているので反対である、という「リバタリアン自由至上主義)」の考えを目にして、「たしかにそのとおりだな」とも思ったわけだが、以前から、今よりも激しい累進課税にすべきだと考えていた俺は自己矛盾におちいってしまったのだった。それで、なんとか折り合いをつけねばならなかった。
そこで、“生き物がみな(生き物以外も)たがいに影響をおよぼしあいつながっているという考えかた”を適用することを思いついたのだ。つまり、富裕者は貧困者(を含めた社会全体)から富を得ている[恩がある]わけなので、貧困者(を含めた社会全体)に富を還元することはおかしくない。むしろ、富を還元しなければ、ふたたびそこから富をえることもできない。
となれば、道徳的個人主義とも矛盾してくる。
今まさに生きている人は、物質的にも文化的にも過去の遺産を譲り受けているわけなので、正の遺産とともに負の遺産も譲り受けなければならない。もし返済の義務があるのなら、返済しなければならない。できの悪い親父をもった息子のようなもんだ。そう思ってあきらめるしかない。
日本が大日本帝国の領土やその他の資産を引き継いだのなら、日本は負債も引き継がなければならない。つまり、大日本帝国に謝罪や補償の義務があるなら、それは日本が負うべき義務となる。住民は、日本の主権者として、また過去から連続するコミュティの成員としてその責任を負う。
仮に、日本ではなくアメリカ合衆国大日本帝国の領土やその他の資産を引き継いだのなら、アメリカ合衆国は負債も引き継がなければならない。つまり、大日本帝国に謝罪や補償の義務があるのなら、それはアメリカ合衆国が負うべき義務となる。住民がアメリカ合衆国の主権者となれば、主権者として、また過去から連続するコミュティの成員としてその責任を負う。主権者とならず隷属的な存在となれば主権者としての責任もない。ただし、過去から連続するコミュティの成員としての責任はある。もとからのアメリカ合衆国の国民はアメリカ合衆国の主権者としてその責任を負う。


内容が濃くて盛りだくさんで興味をひくしかけがあってそれなりにわかりやすくていいのですが、ちょっと難しいので、ひとつマイナスにしました。でもそれは本のせいではなく、あつかっている内容のせいかな。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学