「一枝の桜 日本人とは何か」V・オフチンニコフ(著) 早川徹(訳)

一枝の桜―日本人とはなにか (1971年)

一枝の桜―日本人とはなにか (1971年)

日本人的精神の3本柱
きれい好き…神道から
無常観…仏教から
美しさをたっとぶ…(*)
(*)はある意味宗教的であり、その偶像が床の間の生花である。
書かれたのがいささか古い(40年ぐらい前)であることと、それによって日本人(だと思う)の俺でさえ「へぇ〜」ってなことが結構あり、また、いくら昔でも「それはありえんだろう」ということもある。
たとえば、東洋レーヨン(いまは東レ)の名古屋工場で、人工的に植物の光合成みたいなことをやっているという話は、聞いたことがない。それはいったいどんな技術をさしていっているのだろう。
だが、それらを差し引いても、あるいはそれらも含めて、十分に面白い。
また、教えられることもおおい。

人間の心のなかに激しい感情が燃えたぎると、特定の身振りが生まれてくるものだが、茶道の名人たちは、それとあべこべに、精神に影響をおよぼし、精神に安らぎを与えるような身振りが存在すると考える。茶道は、人間の動作をきびしく定めて、美しく均衡のとれたものにすることによって心に安らぎを生みだし、自然に遍在する美に、きわめて敏感に反応するような心境をもたらすのである。

はまさに達観。肉体と精神は一つのものの2側面なのだから、きっとそうにちがいない。ああ、ヨガだっておんなじか。

そういえば、

芸術において「罪は罰せられ、善は報われる」という公式よりもはるかに日本人を感動させるのは、なにか大切なものを、それよりも重要ななにかのために犠牲に供する人間という主題なのだ。したがって、日本人がとくに好む主題は、恩義と「義理」の衝突とか、あるいは国家にたいする忠節と家族への誠実の衝突である。こういう場合には、めでたし、めでたしという結末はまったくなくてもよく、悲劇的な結末も明るい結末と受け取られる。悲劇的結末は、どんな犠牲を払っても自分のなすべき務めを果たす者の意志の力を確認するものだからである。

という部分があったが、俺も、21g ★★★★☆ - 主夫の生活でそんなようなことを書いていた。