「息の発見」五木寛之×玄侑宗久(対話者) ★★☆☆☆

息の発見

息の発見

こういうことに興味がないわけではないが、借りてまで読もうとは思わない。しかし、そこに本があり、読む時間があり、誰もそれを読んでないとなれば別だ。それを読んでみるくらいの興味はある。というか、かつてはかなりあった。そりゃ、インドに何回も行くくらいだから、あったとしても不思議じゃない。でも、今となってはもう、ほとんどどうでもよくなっているのだ。それでも、なにか役にたつ新しい知見がないかと思って読んでみた。
妻が借りた本である。
83ページに「ヴィパッサナ」という言葉が出てくる。

玄侑 はい。ヴィパッサナとはパーリ語で、明確に観るのヴィと、観察するパサティの、二つの意味からできていることばで、いわゆる「止(サマタ瞑想)」と「観(ヴィパッサナ瞑想)」の、観の方ですね。
五木 ああ。観想法なんですね。
玄侑 観というのは、動きそのものを意識しつづけるんですね。たとえば目を閉じて、顔が揺れると思う……。最初は、もちろん意識してやります。ただし意識のしかたは、頭が勝手に動いているというふうに意識するんですね。そうすると、だんだん、ほんとに勝手に動きだすんです。

と、ここまではいい。
ところがそのあとがいけない。

五木 体で動かすのではなく、意識が動かす。

まるでわかっていない。意識が体を動かすのではなく、体が勝手に動くのだ。それをあとから意識するのである。それを、玄侑氏は、次のように、おだやかに、ていねいに、そして完全否定している。

玄侑 動かすことに意識は使わず、無意識に動いていると思い込むんです。そのときに自分の意識は、あ、ここが緊張してきた、ここがゆるんでいるとか、内部の筋肉のようすだけを追うんです。そうすると、完全に、頭の言語脳が休んじゃいますから、ほんとに速やかに瞑想状態になります。

俺だったら、こうはいかない。「あんたはまるでわかっていない。そりゃ正反対だよ」と言っちまうだろうな。
ところで、これもやっぱりインドにいるときだったと思う(タイかもしれん)。とにかく、そうとう暇で、でも、持てあましてるんじゃなくて、その暇を楽しんでいるときだったと思う。いささか悪い趣味だとは思うが、実況中継ごっこ(と俺が呼ぶこと)をしていたのだ。まあ、ようするにマンウォッチングなんだが、人の動きを観察して、それをできうるかぎり言葉に置きかえるのである。たとえば、「右手でカップをもちました。だんだん口に近づけていく。あ、カップに口をつけた。少し飲みましたねえ。そして、、、どうするのか、テーブルにもどすのか。どうでしょうか。お、ふたたびカップに口をつけたぞ。そして、、、いや、まだ置きません。なかなかしぶといですねえ(後略)」みたいにね。
で、あるとき、ふと思いついて、それを自分自身に対して適用してみたんだ。そうしたら!なななななんと!!!自分の動きも実況中継できるではないか!ということは、つまり、意識よりもさきに行為があるということなのだ。いままで、頭の中で考えて、それから命令を発し、それで行動がおきる、と考えていたのに…なんじゃこれはぁ???と、びっくり仰天だったのだ。
で、このまえ「ホンマでっかTV」で池田清彦がおんなじようなこと言っていたのでびっくり。それがまた、そういう話を上の子にした翌日ぐらいだったんで、なおいっそうびっくり、だったんだよね。
それでまた、そんな「実況中継ごっこ」なんてテキトーな呼びかたじゃなくて、「ヴィパッサナ」なんてたいそうな名前がついていて、しかもそれが瞑想法だなんて、びっくりしたわぁ。
ということで、アーダコーダ考えずに体の動きにまかせればいいのだ。
普段は、そんな、意識より先に行為がある、なんてことを意識しているわけではないけれど、なにか選択に迷ったときがチャンスだね。そういうときに、あえて結論を下さず、自分の動きを見まもっていると、自然とどちらかを選んで行動してるから。
そういえば、こうやって文章を書いてるときもそうだね。いろいろぐだぐだ考えていても、けっきょく勝手に指が動いているんだから。
まあ、でも、玄侑氏の言うように、「速やかに瞑想状態になります」というわけにはいかないけどね。ああ、俺の場合、言語化してるからダメか。