夢の造語

夢の中で「やったらあかんたれ」と言った。「やったらあかん」と「あかんたれ」をくっつけた。洒落のつもりだ。そして、思いついた。そういうの(意味のある言葉の後ろを変形して別の言葉につなぐ(変形させず、単に付け加えるだけのこともある)ような言葉遊び)を「イナーシャレ」と言うのはどうか。慣性という意味のイナーシャと洒落をくっつけた。それ自体が、その内容の指し示す形になっている。なかなかイカスじゃないか。と、夢の中では思ったのだが、朝食のとき家族に話すと、家族の反応は「???」だったし、俺自身、「全然よくないカッコワル」と思った。
これを慣性と関連づけたのには次のような経験が影響していると思う。
むかし俺は、職場にいる外国人に、ヘンな日本語を教えることを楽しみにしているわるい人だった。「〜さん」と呼ぶのは馴れ馴れしすぎてあまりよくない、「〜ちゃん」と言うのが丁寧でいいとか、人になにか頼むときは「〜してちゃぶだい」「〜してちょんまげ」というのが正式な言い方だ、とか。その流れで、「その手は桑名の焼き蛤」とか「恐れ入谷の鬼子母神」という言い回しを教えていた。
で、逆に、そういうの(さしずめ今なら、「ありがとうさぎ」とか「さよならいおん」もかな。上の2つとはレベルちがいすぎだけど)を英語で何と言うか?と聞いた。すると「Malapropism」と答えられたのだが、俺には「Matter-propelism」と聞こえたのだ。構成する音があとに言葉がつづいていく推進力になるみたいな感じで。つまり、まえの言葉の慣性であとに別の言葉が発せられるみたいな。それで、「イナーシャ」が出てきたんだと思う。
あとでよく聞いたら、「Malapropism(マラプロピズム)」とわかって、がっかりしたよ。調べてみたら、マラプロピズムというのは、ようするに「ボケ」の一種だな。たとえば「リハビリ」を「リハリビ」と言ったり、「常夏の島」を「ココナツの島」と言ったり、「どういたしまして」を「どうイタ飯て」と言ったり、というやつだろう。「シルベスタ・スタローン」を「シルベスタローン」とか「シルベスタスタスタローン」と言うのもこれになるのかな。「風邪をお召しになりませんように」を「風をお召し上がりになりませんように」と言うのはどうだろう。つまり、言葉の類似性に基づく作為的な誤用であって、俺の思っていたやつとはちがう。俺の思っていたやつは、決して「ボケ」ではない(し、「ツッコミ」でもない。そういう関西系の言葉遊びではなく、たぶん江戸のものである)。たぶん、間をもたせるため、あるいは感情的ごまかし、一種の婉曲話法なのだと思う。上の2つの例でも、「その手は喰わない」「恐れ入りました」では、あまりにもそっけないし、敗北的だし、つっけんどんだ。
まあ、でも「Matter-propelism」自体がマラプロピズムだったわけだ。
それじゃあ、俺の思っていたやつは、本当は、何と言うのか?
それがわからないのだ。「地口」というのの一部とは言えそうだが、「地口」そのものではない。「地口」の意味はもっと広い。どうも、ぴったりの言葉はないのではないか。そういう思いが、夢の中での造語につながったのではないか、と思う。