『秘の思想』柳父 章(著)★★★☆☆

秘の思想―日本文化のオモテとウラ

秘の思想―日本文化のオモテとウラ

秘すれば花」。たしかにそうなんだが、それは日本だけのものでもないだろう。ダン・ブラウンの本なんか読むと、欧米でもええかげんその手を利用していると思えるのだが。ただ、日本の場合それが日常的というか生活の中にとけこんでいるというか、そういう気もしないでもない。でも、おれはだめだ。我慢ができないから黙っとれん。
ただ、日本のことばかり論じていたんじゃそれが日本に特徴的なことなのか普遍的なことなのかわからない。もっとも半分ぐらいしか読んでないので(それゆえ星の色はうすい)、まだ読んでない後半でそういったことが書かれているのかもしれない。
なるほどとは思えるのだが、文章の構造がとらえにくく、なんか同じことを繰り返しているようで、だんだんあきてきて読むのをやめた。あきてきたというか、効率わるそうなんで。
そのわりにははやく読めて、きのう半日で半分ぐらい読めてしまった。すっとばしたわけでもないんだけど。古文のところもちゃんと読んだし。でも、古文は、高校のとき大の苦手で、やっぱりよくわからない。日常生活では不便しないんだけどね。
まあ、その部分は歌舞伎の台本みたいのがおおくて、それで余白がおおくてはやく読めたのかもしれないんだけど。
口語訳が書いてあればいいのに、書いてないので本当にわかっているのかどうかわからない。口語訳がないのは、口語訳によってずれたイメージが植えつけられるのを防いでいるのかもしれない。どうやら、そういうことが言いたいようなので(著者は翻訳語研究者らしい)。
つまり、大陸から漢字が入ってきて、なんとなくだいたいの意味はわかるんだけど実はほんとうの意味はわかってないんじゃないか?っていう疑念がいつまでもあって、そのわかってないところに重要な意味がかくれているんじゃないかということから、かくれていることこそありがたい、ていうふうになったんじゃないか、って。
のちの時代(とくに第二次大戦後だろうなあ)では外来語が漢字のはたらきをしている、って。
言葉だけじゃなくて、物もそうで、銅鐸や鏡や剣をあがめるのは、どこかの土人が流れ着いたペットボトルを神様の乗りもんと考えるようなもんなんだな(たとえはオレ流です)。
というわけで、霞が関語やカタカナ語や、よくわからん古文はありがたいわけです。同様に、よくわからん論文もありがたいわけです。んなわけあるかっ!
ああ、書いてたら、つづきが読みたくなってきたわ。