『からくり民主主義』高橋秀実(著)★★★★★

からくり民主主義

からくり民主主義

はじめはなにが言いたいのかわからなかった。どっちの側の人間かわからなかったからだと思う。
ところが読んでいくと、〈どっちの側〉でもないということがわかってきて、それどころか当事者にしても〈どっちの側〉だなんて単純には言えないということもわかってきた。さらに、いろんな立場の人たちがモチツモタレツで微妙なバランスをとりながらうまいことサスペンドの状態をたもっているということも。そして、それこそが「からくり民主主義」なのかな?と思っていた。
ところが、あとがきのようなところで『からくり民主主義』はじつは《からくり-民主主義》ではなく《からくり民主-主義》だと書いている。
ああ、そうか。からくりのあるいんちきくさい民主主義ではなく、からくりのある民主の主義か、つまり、そういうモチツモタレツの微妙なバランスのサスペンドでいこうという主義なのか。
と思っていると、そうではなかった。
〈民主〉というのは民が主役というような意味だが、みんなが主役では主役がいないのと同じになる。そこでマスコミや政治家は生身の人間とは別に《民》(国民/都民/府民/県民/市民/町民/村民)をつくってそれらを主役にする。そういうからくりの民主が《からくり民主》というわけだ。
というわけで、答ははじめから帯に書いてあったのだ。

「国民の声」ってのは、いったい誰の声だ?

って。
帯には、ときどき頓珍漢なことが書いてあるが、この本の場合は的確だ。
にしては、表紙のタイトルはいかん。[からくり]と[民主主義]にわけてもらっては困る。カンチガイしちゃうじゃないか。ここはやっぱりたとえバランスが悪くなっても[からくり民主]と[主義]の2行にしてもらわんと。


いやあ、たしかに。であれば、生身の人間の声をじかに聞けば、聞けば聞くほどわけがわからんくなって当然かもね。
おもしろかった。深い。でも笑えた。ときどき意味がわからんとこもあったけど、それをおぎなって5つである。