ケルト巡り 河合隼雄 ★★★★☆

ケルト巡り

ケルト巡り

まあまあ面白かったが、すぐに眠くなってしまう。実際よく寝た。というのも、たぶん書いてあることの意味が理解できないからだと思う(もちろん全部ではない)。理解できないことに集中すると眠くなるのだ。難しい授業とか、わけのわからん会議とか、遊☆戯☆王とか。
で、なんで理解できないかというと、論理的じゃないからである。でなければ、論理的ではあるが論理に飛躍があり、俺がそれについていけないからである。と思ったら、あとがきによると、この本は一種の口述筆記のようなやり方でかかれたものらしい。であれば、さもありなん、である。
俺は以前、映画「ハウルの動く城」を見て魔女や魔法はもうたくさんと書いた*1し、映画「ハリー・ポッター 不死鳥の騎士団」でも、睡魔にとことん苦しめられた*2が、これを読んで、そういう系の物語も、ユング的視点で見てみれば見れんこともないかも、と思えた。映画では日常的な場面からいきなり荒唐無稽な話に入り込んでいき、ふと目がさめる、あるいは我にかえる、という手法がよくある。それは一時的な夢や妄想だということで納得できるのだから、ファンタジー系の物語でも、全編が夢や妄想と思えば納得して見れるのではないか。甘いか?
また、変容と復元 - 主夫の生活で書いたことに関してだが、たぶん俺の感覚は日本人的(ケルト的)感覚なのだろう。日本人的(ケルト的)感覚では、変容に理由(魔法)はいらない。キリスト教的社会ではそれが必要なのだという。おそらくは復元もキリスト教文化の産物なのだと思う。
アイルランドに「魔女」という商売があるというのは笑えた。インドでも1948年だか何年だかにwitch doctor(呪術医)は法律で禁止された、という話をプーリーはサンタナ・ロッジのカンタクマール・ダッシュ(通称クンナ)が言っていたのを思い出す。たしか、呪いで人を病気にしてそれを治して金を儲ける輩がふえたために法律で禁止した、という話だった。病気を治せるのなら病気にする事だって(殺すことだって)できるのだろう。せっかくいい使い方ができるのに、悪いことに使うやつがいるから全面禁止か。悪用だけ禁止できればいいのだが、呪術ほど取り締まりにくいものはないだろうからな。
このまえ"霊とか魂なんてものがあるとも思えない。予言とか透視能力なんてものも信じられない"と書いたが、ダウジングは信じている。あれはきっと、無意識が感じて体が反応してるんだろう。通常は意識がそれを押さえ込んでいるが。
また、「ゲニウス・ロキ」(場所の力?)というのもあるかもしれない。でも、「この場所は何かとてつもないパワーを感じます」なんて言われても困ります。ダウジングのように目に見えるような形で示してもらわないとね。たぶん、磁力や重力やあるいは未知の属性のわずかな差を無意識が感じ取っているのだろう。意識の覆いをとりのければ、敏感な人なら感じられるかもしれない。
ちなみに、オーラ(らしきもの)は俺も見たことがある。詳細と考察はこちらで。
最後に河合氏は"私はいつも「いかに生きるのか」という問いに向き合って生きている"みたいなことを書いているが、俺はそんなことはまったく考えていない。そもそも、そんなことを考える必要があるのだろうか。そんなことわからなくても、まったく不自由しないぞ。というか、そんなこと考えたら、わからなくなっちゃって不自由しちゃうぞ。