「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)

まだ読み終わってないけど、まあええ加減やんなってきた。だいたい俺がおぼろげにおもっとったことだったしなあ。まあ、それを他人にも認識できる[テキスト]という形で表出してくれて、「ありがとう」という感じだ。
その中で2つほど特にかいておきたいことがある。ちょっと長いが引用しておこう。
ひとつめ

 言葉は頭を整理する道具ですが、音だけを気分で使っていると、頭のほうがそれに馴れてきて、聞き馴れぬ言葉を聴いても、「それ何?」と問いかけなくなります。頭の中を記号だけが流れるようになります。
 その記号の意味を問う、という自然な心の動きがなくなってしまいます。心から好奇心が失われ、心になまけぐせがつきます。もっとも危険な状態ですね。わかる、の原点は後にも先にもまず、言葉の正確な意味理解です。ここをおろそかにしてはなりません。

俺はこれでも言葉を、自分なりにだが、じゅうぶん選んでいるつもりだし、漢字だってかなり意識してつかっている。推敲だって何度もしている。そうは思えないかもしれないが、それは俺の力がいたらないせいで、自分なりにやってはいるのだ。映画「ラストエンペラー」で、溥儀の家庭教師が言葉の大切さを説くくだりが印象に残っている。
ところで、引用文中の「馴れて」「聞き馴れぬ」の「な」は、この字じゃないような気がする。俺なら平仮名にするところだ。「馴れる」「慣れる」「狎れる」「熟れる」は、みな同じ音であることからも、ヤマトのひとびとにとって、もともとおなじ意味だったと推測できる。それを中国風にカテゴライズするのは、ヤマトのひとびとにとって、ちょっとむずかしい。中国の文字をあてるには中国式カテゴライズが必要になる。中国式カテゴライズがむずかしいときは中国の文字をあてなければいい。
ふたつめ

〜比較すべき対象、あるいは遂行すべき過程を全部同時に意識に浮かべることが出来ないと、その課題を実行出来ないということです。意識にあるものがひとつだけでは比較のしようがなく、つながりのある行動の一部分だけでは実行のしようがないのです。
 もちろん、どんなことでも同時に意識化出来るかというと、そうはゆきません。そんな場合、われわれはメモをとります。文や図などのメモを使って作業記憶を強化したり、代用したりするのです。

というわけで、http://d.hatena.ne.jp/booton/20050626で書かれているようなことは、booton氏だけではないと思います。メモリが足りないのでハードディスクを仮想メモリとして使うswapみたいなもんだよね。
それともうひとつ。文章を何度か読むと自然にわかるのは、一度ではおぼえきれくても何度か読むうちに全体があたまに入るようになるからだ、つまり同時に意識化できるようになるからだ、ということ。これは「なるほど!」だったな。

あれあれ、まだあったぞ。終わりがけになって「なるほど!」級が続々でてきたな。知覚−心理表象−運動という過程のなかで、心理表象は知覚を、運動する価値があるかどうか、篩にかける役割をしている。よって、心理表象は知覚ときりはなせないのと同様、運動ともきりはなせない。運動する(言葉にする、図にかく、やってみるなど)ことで心理表象があいまいであることに気づいたり、運動するためには心理表象をはっきりさせなければならないのは、そのためである。